立憲民主党インタビューの続編をお送りします。
今回の内容は、生い立ちや家族についてお話しした部分です。ご覧ください。
★前回のインタビュー内容はこちらをご覧ください
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INTERVIEW#06 文京区担当政策委員 沢田けいじ
「受け継いだバトンを子どもたちにつないでいくために」
――生い立ちについて詳しく教えてください。
先にお話ししたとおり愛媛県松山市で生まれ、海と山に囲まれて育ちました。故郷は昔からの風習が残る瀬戸内の漁師町で、お祭りや行事が盛んだったので、幼少期の忘れられない思い出がたくさんあります。地域のつながりも深く、町じゅうが顔見知りで、友だちと一緒にいたずらをしては、いろんな人に叱られました。
――家族についても教えてください。
両親は教員で、夜も自宅で塾を営んでいたので、わが家は毎日、大勢の子どもたちが出入りして賑やかでした。その分、幼少期は隣家の祖父母に預けられることが多く、紙飛行機を折ったりチラシの裏に落書きをしたりして、いつも一緒に遊んでもらいました。母方の祖父は器用な人で、園芸や大工仕事、料理にお祭りの支度まで、なんでも自分でやって見せては、私に教えてくれました。
――思い出に残っている出来事はありますか?
亥の子という地域行事があって、11月の亥の日の夜に5~6人の子どもたちが集団で町じゅうの家々を巡り、藁棒で地面を搗きながら囃子唄を歌っては、おもてなしをいただいてまわるのです。この亥の子の藁棒を作るのは決まって祖父の仕事で、他の子の藁棒より頑丈で壊れにくく、地面を搗くときによい音がなるのが自慢でした。
――子どもだけで町じゅうを回るのですか?
はい。回り終わるとこれも子どもだけで、いただいたおもてなしを分配するのです。やはり祖父の家の片隅を借りて、年長の子を中心にそれぞれの取り分を決めるのですが、少しくらい揉めても祖父は見て見ぬふりでした。子ども同士の世界を大切にする人でしたね。
――そのほかの思い出はありますか?
祖父は太平洋戦争に行っていて、派兵先のミクロネシアの無人島での体験を聞かせてくれたことがありました。雑草の根を食べて飢えをしのいだ話や、艦砲射撃の直撃で目の前で友人を亡くした話などをしたあと、「命なんて軽いもんやと思っとった」とつぶやいた祖父の遠くを見るような表情が、今も忘れられません。
――母方のおじいさんですか?
はい。もう一方の父方の祖父は結婚後すぐに徴兵され、ニューギニアで戦死しました。祖母は乳飲み子を連れて満州から帰国し、旅館の住み込みの下働きをしながら女手一つで父を育てました。私たちにもとてもよくしてくれましたが、母方の祖父とは違って、戦争について一度も口にすることはありませんでした。
――思い出すのも辛かったのでしょうね。
ええ。父の話では戦死の知らせを信じることができず、戦後も祖父の帰国を待ち続けたそうです。祖母はとても信心深い人で、小さな神棚の前で一人、祈っている姿をよく見ました。何を祈っていたのか、やはり口には出しませんでしたが、一心に祈る祖母の寂しげな横顔に幼心に死の影のようなものを感じた記憶があります。
――亡くなった人の影、ということですか?
はい。私も大学のとき大切な友人を病気で亡くしました。誰に対しても優しく、みんなに慕われ、ひとり暮らしに馴染めなかった私をいつも励ましてくれました。葬儀には本当に大勢の人が集まりました。彼との別れを惜しむたくさんの声を聞きながら、なぜか自責の念に駆られました。
――どんな気持ちでしたか?
なぜ彼が亡くならねばならなかったのか。なぜ彼ではなく私が残されたのか。もし彼が残っていれば、もっと人のために尽くすことができたし、大勢の人が悲しまずに済んだはずと思うと、居ても立ってもいられなくなりました。
――難しい問いですね。
ええ。しばらくしてから、この問いには答えがないんだと気づきました。精一杯、悔いのない毎日を過ごすことだけが答えに近づく方法だと。彼にこの気持ちを伝えることはできませんが、常に意識し続けることはできます。どこかにいつも、彼の存在を感じているんです。
――本当にそうかもしれませんね。
彼も祖父母も、私に大切な何かを残して去っていきました。彼らが生きた証を後世に受け継ぐためにも、残された私がしっかりとバトンをつないでいかなければと感じています。
(インタビューは次回に続きます)