子どもたちが当たり前に政治を語れるまちをつくる
初当選の一か月前、2019年3月のインタビューの内容です。
生い立ちや経歴、議員を志した理由や自治への思いをお話ししました。
あなたが人生の主役になれるまちへの道筋について、ご覧ください。
生い立ちと思い出
――受け継いだ命のバトンをつなぐ
――まずはプロフィールについて。出身は愛媛県だそうですね。生い立ちや思い出があれば聞かせてください
生まれたのは松山市です。瀬戸内海に面した漁師町で海と山に囲まれて育ちました。小さな町で町じゅうの人が顔見知りでしたし、お祭りや年中行事が盛んだったので忘れられない思い出がたくさんあります。
――ご家族や生家は?
両親が教員で私塾を営んでいたので、子どもも大人も大勢が出入りする家でした。小さい頃は母方の祖父母に預けられることも多く、いつも祖父に遊んでもらっていました。とても器用な人で、大工から料理までなんでもやって見せて教えてくれました。
――おじいさんっ子だったんですね。印象的な思い出は?
太平洋戦争で従軍したミクロネシアの孤島での体験を聞かせてくれたことがありました。雑草の根を食べて飢えをしのいだ話や艦砲射撃を受けて友人を亡くした話をしたあと、「命なんて軽いもんやと思っとった」とつぶやいた祖父の表情はいまも忘れられません。
――壮絶な体験だったんでしょうね。お父さんのほうはどうですか?
父方の祖父は結婚後すぐに徴兵され、ニューギニアの山中で戦死したそうです。祖母はひとり乳飲み子を連れて満州から引き揚げ、住み込みで働いて父を育てました。優しい祖母でしたが、母方の祖父母とは違って戦争については一度も口にしたことがありませんでした。
――きっと思い出すのも辛かったんでしょうね。
そうかもしれません。父の話では祖父の戦死を信じられず、帰りを待ち続けたそうです。信心深い人で、小さな神棚の前でひとり静かに祈る姿をよく見ました。何を祈っていたのかは分かりませんが、祖母の横顔に死の影を感じた記憶があります。

――亡くなった人の影ということですか?
はい。私も大学のとき大切な友人を亡くしました。誰にでも優しく、ひとり暮らしになじめない私をいつも励ましてくれました。葬儀にも大勢の人が集まりました。別れを惜しむ声を聞きながら、自責の念に駆られました。なぜ私でなく彼だったのか。もし彼が生き残っていたら、もっと世のため人のため貢献できたはずなのにと思うと、居ても立ってもいられなくなりました。
――難しい問いですね。
ええ。しばらく経ってから気づきました。彼と同じように人に尽くすことはできないかもしれない。でも、彼のように悔いのない毎日を過ごすことはできる。彼も祖父母も、大切なものを残して亡くなりました。彼らの生きた証や願いを後生に遺すためにも、バトンをつながなければと感じています。
長屋ぐらしの流儀
――旧くて新しい支え合いの仕組み
――文京区に移り住んだきっかけを教えてください。
きっかけは大学受験です。18歳で上京し、学生寮で2年暮らしてから、キャンパスが変わるきっかけで文京区に引っ越してきました。
――根津の古い長屋に暮らしているそうですね。
大学への道すがら、同級生の妻とよく根津の町を散歩しました。どこか懐かしいのに路地を覗くと発見があって、新鮮な気持ちになりました。そのうち知り合った友人の長屋での暮らしが気に入って、根津の長屋に引っ越すことにしました。

――新鮮な体験ですね。住み始めはいかがでしたか?
いろいろありましたよ。並びに住む酔っ払いのおじいさんが、急に玄関から入ってきたりするんです。上がり框に腰掛けて「最近の若いもんはよー」と一時間のお説教ですよ。はじめは困惑しましたが、あとになって新参者の私たちの暮らしぶりを見守ってくれていたんだと知りました。
――他にもエピソードはありますか?
親しくなってからもいろんなことを教わりましたよ。長屋では内緒話はできないんだとか。壁が薄くて陰口も悪だくみも筒抜けだから、そういう人は住めないんだって。長屋の人に悪い人はいないんだと言うんですよ。
――むかしの人たちの暮らしの知恵ですよね。
そうなんです。あと、「隣に醤油を借りに行く」って言うじゃないですか。あれ、今じゃ考えられないですよね。ところが、醤油はわざと借りに行くもんだって言うんです。取るに足らないもので人に借りをつくるんだって。そうやって小さな借りて返してを繰り返すのが信頼だって言うんです。
――長屋暮らしの流儀とでも言えそうですね。
もうひとつ、長屋の人はよくネコを飼ってるんですが、たいがい何軒かを行き来しているんです。軒が並んでいて渡り歩きやすいからみたいですが、そうやっていろんな人がご飯をあげて、それぞれの名前で呼んでるんです。誰のネコかなんて関係ないんですね。

――ご家族についても教えてもらえますか?
妻と息子3人です。子どもが生まれてからもほんとうにいろんな人にお世話になりました。忙しいときに面倒を見てくれたり保育園に迎えに行ってくれたり。ご飯やお風呂までお世話になることもありました。
――それは今どき珍しいですね。
ただのご近所さんですからね。さすがに申し訳ないと謝ったら「遠くの親戚より近くの他人でしょ。お互いさまよ」と笑顔で諭されました。「子どもだってその方が絶対、幸せなんだから」と。それ以来、この町のことが大好きになりました。
――「遠くの親戚より近くの他人」ですか。
この町では迷惑をかけないことより、かけて返しての方が大事なんです。子どもにも親以外の大人からしか学べないことがありますよね。親が迷惑を気にすればこの関係もなくなります。反対に、いつか返せばいいと思えれば気兼ねなく助け合えます。
――「迷惑をかけない」という発想に問題があると?
実際、東日本大震災のときはご近所の片付けを手伝ったり壊れた戸を直したり、日頃の恩返しができました。隣のひとり暮らしのおばあさんは、子どものにぎやかな声を聞くと安心すると言います。「うるさい方がいいのよ。前の家は物音ひとつしなくて、怖くて夜も眠れなかったんだから」と。
――今は、子どもの声を迷惑と感じる人のほうが多いですよね
知らない子どもの声は気になりますが、長屋では向こう三軒両隣は知り合いです。ネコや子どものような小さくて弱い存在がつないでくれるんです。オープンでお互いさまのつながりを、誰もが気持ちよく関われる支え合いの仕組みをどうつくるかが課題だと思います。
地域と学校をつなぐ
――まちぐるみで支え合い、学び合う
――沢田さんが「まちぐるみの支え合い」と言っていたものですね。
実際、忙しいし余裕もありませんが、困ったときは誰かが助けてくれるという安心感があるから支え合えるんです。保育士の経験を地域に役立てたいと思い、保育園の父母の会や学校のPTAに関わり始めたのもこの頃です。

――お子さんの保育園では父母の会長もされたとか。
ちょうど東日本大震災で問題が山積みのときでしたので、父母の代表として参加した区の審議会では、行政の限界と区民参加の重要性を痛感しました。また、子育てをとおして支え合う安心を伝えること、これから子育てする人が大勢の助けを借りられる環境をつくることをライフワークと考えるようになりました。
――専門や仕事についても教えてもらえますか?
大学の専攻は農学部でしたが、教職を目指して教育学部にも通いました。そのときの保育学や幼児教育学の授業は新鮮で、価値観を根本から覆されました。教育って双方向のものなんですよ。大人が子どもに学んだり、子どもと一緒に人生を生き直したりするのがほんとうの教育なんです。大学院のあとはそんな世界に憧れて都内の保育園に就職しました。
――思い切った転換ですね。現場の仕事はいかがでしたか?
はじめは戸惑いましたよ。理論と実践のギャップや、保育士と保護者の価値観の違いにずっと悩んでいました。あるとき恩師が「迷ったら子どもに相談するんだよ」と教えてくれたんです。肝心の子どもを見ないで大人ばかり見ていたんだと思います。それからは、対等な一人の人間として子どもと関わる現場の仕事を楽しめるようになりました。
――現場ならではの気づきですね。ほかにはどんな仕事を?
保育士の育成や地域・学校との連携です。いまの先生たちは若いし忙しいしで、子どもと学び合う余裕がありません。保育も人手不足で人材育成が課題です。なかでも地域や学校との関わりは、現場の保育士の視野を広げ、探求心を深めたり働き甲斐を見つけたりするのに役立ちます。
――学校のPTAにも関わったそうですね。
はい。現場の先生たちの苦労の多くは地域の協力で解決できます。地域の教育力と学校教育の質も深く関係しています。地域と学校がビジョンを共有することで、教育現場のさまざまな問題に解決の糸口が見つかるはずです。
第二の故郷をつくる
――子どもたちに原風景を受け継ぐ
――つぎは政治を志したきっかけを教えていただけますか?
近くに住む区議さんから、年末の火の用心に誘われたのがきっかけです。一緒に拍子木を打ちながら夜の町を回るんですが、この町のことを知り尽くしているのに驚きました。路地をくまなく歩いて、すれ違う全員に声をかけるんです。「火のもと戸締り、ご用心ください」「おつかれさま。今日もありがとうね」という感じで、みんな知り合いなんですよ。
――普通の人はなかなか声はかけませんよね。
確かに、この町の人はよく人に声をかけるんです。例のおじいさんはいつも路地の入口に立って「どこ行くんだ?」「誰かに用か?」と声をかけるし、惣菜屋のおばさんも「さっき奥さんが大根を持って帰ったから、今夜はきっとお鍋ね」と人を見てるんです。町を守っている人の存在にはじめて気がつきました。

――街場の気づきですね。それから何か変わりましたか?
それがきっかけで地域や町会の活動に関わるようになりました。子どものイベントやお祭り、まちづくりや防災などいろんな仕事や役割を任されるなかで、はじめてコミュニティの一員として認められた気がしました。そして、町を守る人たちに触れるなかで、次第にこの町を第二の故郷と感じるようになりました。
――町への愛着を感じたということでしょうか。
子どもたちにとっては、生まれ育ったこの町が故郷なんですよね。この子たちの記憶に、故郷の原風景や原体験を残したいと思いました。将来、思い出したときに「ここで生まれ育ってほんとうによかった」と思える町をつくりたい。そうやって先人の思いを子どもたちに受け継いでいくことが、私のできる一番の恩返しだと思っています。
民主主義の学校をつくる
――地方自治から政治を立て直す
――子どもたちのためのまちづくりですね。ところで、なぜ立憲民主党を選んだんですか?
政治をもっと身近に、子どもたちが関心を持てるものにしたいんです。立憲民主党はボトムアップの政党です。政治が生活を変えるのではなく、生活が政治を動かす。政治家が住民をリードするのではなく、住民が政治家を動かす。本来の関係を取り戻し、血肉の通った民主主義を実現するのが目標です。

――生きた民主主義ですね。地方議員を志した理由は?
歴史学者ジェームズ・ブライスが残した「地方自治は民主主義の学校」という言葉があります。民主主義の基盤は地方自治であり、民主的な国家を実現するにはまず地方自治からという意味です。言い換えれば、この国の民主主義を守る最後の砦が地方自治であるともいえます。
――最後の砦ですか。
いまの政治には、家庭や地域の支え合いの仕組みを補う力はありません。温かくて肌ざわりのよい社会をつくるはずの政治が、冷たい自己責任論や弱肉強食の競争を煽り分断や対立を助長しています。
――本来の政治じゃないと。目指したいのはどんな未来ですか?
一人ひとりが主役の未来です。自由と人権を守る社会です。立憲主義は政治の暴走を止めるため、民主主義は一人ひとりが主役になるためのものです。必要なときに誰もがケアを受けられる未来を、忙しくても誰もが安心して子どもを生み育てられる社会をつくりたいんです。
――そんな社会を実現するのが政治だと?
立憲民主党は一政党に過ぎませんが、住民と政治家をつなぐプラットフォームの価値はそれ以上です。身近な問題をとおして政治への関心を育てる。「よく分からない」を「分かった」に、「つまらない」を「面白い」に変える。生活の現場から民主主義を立ち上げるのも政治家の大切な仕事です。
――そうやって社会を変えていくのが政治家の役割だと?
この町が変わればまわりの自治体にも影響を与え、地方自治が変われば国政にも変革のチャンスが生まれます。回りくどいと思うかもしれませんが、一人ひとりの生活の現場から積み上げていかなければ、持続可能な政治や社会はつくれません。
――政治の持続可能性ですね。いまの国政はどうですか?
分断と対立を煽る政治の流れを変えるのも一人ひとりの工夫と努力です。身近な問題を人まかせにしないで、自分で動かすことから始めてみませんか。決められたルールを我慢するのではなくて、自分でどう変えるかを考えてみませんか。そうやって信じられる確かな規範を積み上げた先に、本来の政治があるのではないでしょうか。
――最後に、読者のみなさんへのメッセージをお願いします。
地方自治の目的は、あなたが主役になれる町をつくることです。政治も社会も先行きの分からない状況が続いています。つい考えるのをやめたくなります。でも、自分がどんな人間かを、何を望んでいるかを深く理解することはできます。何が楽しみかを掘り下げ、その先にある社会の姿を思い描いてみることはできます。道のりは遠くても、一歩ずつ近づく喜びは感じられます。この町の未来をつくるのはあなたです。一緒に新しい挑戦を始めませんか。

▼インタビューの続きはこちら
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- #2 未来を生きる子どもたちに選ばれる議員になる
初めての議会活動の振り返りや開かれた自由な議会の実現方法など - #3 誰もが政治の主役になれる社会をつくる
コロナ危機による変革のチャンスやボトムアップの政治の実現方法など - #4 透明で開かれた区議会から自治と民主主義を立て直す
初当選から4年間の振り返りや自治と民主主義の立て直しの方法など - #5 あなたと議会をつなぐ。生活と政治をつなぐ。
若者の政治参加の方法やそれを支え、力づける政治家の役割など
- #2 未来を生きる子どもたちに選ばれる議員になる


